Skip to content

「メメとレベッカの話」

最後の場所をそこに決めたのは、海が見えるからだ。
海を見下ろす丘にある、古びたベンチ。遠い遠いその果てが私たちの故郷につながっている、海。
「死ぬ前に、海が見たい」
メメがそういうなら、その願いを私はかなえたい。何としても。

この逃亡生活も限界が近づいている。
メメはすっかり弱り切っていた。美しく輝いていた肌は今やかさつき沈んだ色となり、痩せ衰えた体は自身を支えることすらおぼつかず、私の支えなしでは歩くことすらできない。
最近では陸の食べ物もほとんど口にしなくなった。何とかいいくるめて、ほんの数口食べさせることができれば御の字。

「海に戻りたい。ここはつらい」
私を見ているようでいて、その視線は私をすり抜け、どこか遠くをを見つめているような目で彼女がつぶやくたび、私は気休めのように、いつか戻れるよ、と返した。
実際、戻れるはずもない。
私たちは追われた身。海に戻ることはすなわち死を意味する。しかし、死ぬのを恐れて陸に上がってはみたものの、それは苦しみの先延ばしに他ならなかった。
異形の身である私たちは、ニンゲンの前に姿を現すことはできない。姿を見せた途端、捕まって殺されるか、死ぬまで見世物小屋で飼われるかのどちらかだ。

私たちは日光を浴びることはできない。日の光を浴びると死んでしまう体質だ。
里ではそう教えられてきたし、陸に上がってからはそのことを実感することになった。
活動できるのは夜のうちだけ。陸に逃げ延びた私たちがまず探したものは日の光を防ぐことができる隠れ家だ。
幸いにして、丁度いい洞窟が海の近くにあり、当座はそれでしのげた。

しかし、そこもすぐに捨てることになる。
追手が迫っていたのだ。海の近くは危険と判断した私たちは、追手の来られない森の奥、山の奥へと進んでいった。
思えばそれが間違いだったのかもしれない。
慣れない陸の生活は、確実に私たちの体力、生きる意志を奪っていった。

「レベッカ、後悔してない?」
真夜中を過ぎたころ、ベンチの上でメメがささやく。
「何を?」
「逃げ出したこと」
「なんで?」
「だって、辛かったでしょ?私わがまま言ってばかりだったし。陸の生活にはなじめないし」
「確かに辛かった」
正直にいうと、メメは顔を曇らせた。ずっと、気にしていたのだろう。
「ごめんね」
悲しそうな顔でつぶやく彼女をみているといたたまれない気持ちになる。
「でも、メメと一緒だから、それでもいいんだよ」
「え?」
「私はメメといられればそれで良かったんだ。だから、辛くても、それは幸せだよ。今もこうして二人で朝日を待ってるでしょ。最後の瞬間まで一緒にいられるなら、それは私にとっての幸せ」
「レベッカ…」
メメがそっと身を寄せてくる。
空は真っ暗で、星がきらきらと光っている。
陸に上がってからはよく星を見るようになった。
星の光の冷たさ、夜空の暗さは、海を思い出させるから。冷たくて、でも全てを包み込む海。懐かしい、戻ることのできない故郷。
私たちはただ静かに待っていた。
海が、今はうろのように見えるくらやみが、その端から少しずつ光り輝いていくのを。

やがて、その時がきた。真っ暗闇が少しずつ薄れて周囲の空気が紫がかったダークグレーになる頃、それは来た。
最初はほんとうに端っこだけだった。水平線が、金色に染まっている。
それはだんだんと広がっていって、波が、魚のうろこのようにきらきらと光っている。
それは私たちの目には強すぎて、目にとげが刺さったようにちくちくと痛んだ。

そして、太陽が昇る。
それまでのの輝きは、全てそれを出迎える玉座の様なものだったのだ。
輝く水面に少しずつ顔を出す光の球。初めて見るそれは何色ともいえず、とにかくまぶしくて、美しくて、力強い存在だった。
その光が私たちを照らしはじめる。メメが小さく悲鳴を上げた。
不思議と痛みはなかった。生まれて初めて浴びる太陽の光は、暖かかった。季節でいえば春のような、優しい暖かさ。いわば救いのような。

その暖かさは一方で、私たちの体から力を奪ってゆく。
私たちは少しずつ、皮膚が、そしてその奥の筋肉や神経、骨といった組織が、少しずつ硬化していくのを感じた。
ゆっくりと、少しずつ体に力が入らなくなっていく。
私は自分の太ももを見て驚いた。それは柔らかさを失い、灰色のセメントで作られたもののような質感に代わっている。
足を動かそうとしてみたが、もうほとんど無理だ。これが、死か。
不思議と怖くはなかった。ただ、メメのことが気がかりだった。
彼女は恐怖を感じていないだろうか。一緒にいるのに孤独を感じていないだろうか。
私はまだ動く右手の力を振り絞り、メメの左手を強く握った。思いのほか、力強く握り返してきたメメの左手に安心する。
私たちは、今、一緒にいる。一緒に初めて太陽を見ている。その光を浴びている。死んでゆこうとしている。

光がさらに勢いを増し、私たちの目を焼く。
あまりに強い光は私たちの視力を奪い、周囲の景色は色を失った。まっしろの光。ただそれだけがある。
メメの左手と私の右手はすっかり固まって、もはや離すことができない。
でも私たちは離れる気がないのだから、これでいい。これでいいのだ。
すこしだけ動く頭を動かしてメメの方を見る。メメの顔はすっかりセメント色に固まっている。
それでも、その顔にはぼんやりとした笑みが浮かんでいた。私も力を振り絞って彼女に微笑み返した。
顔の表面が、筋肉が、この瞬間完全に固定されてしまったのが分かる。私の表情はもう二度と変わらないだろう。
でもそれでいい。メメが笑っている。私も笑っている。幸せだ。一緒に微笑みあって、幸せなんだ。