「桜の季節」
「おい、何かついてるぞ」
大倶利伽羅がそう言って髪に触れる。
褐色の指が光忠の髪から払いのけたのは小指の先にも満たない小さく薄い一片。
一見白いが、わずかに薄紅色を落としたような淡い色合いをしている。
大倶利伽羅の指から離れたそれは、ふわっと頼りなく宙を舞い、床に落ちようとする。
光忠は何気なく手のひらで受け止めた。ほぼ無意識の行動だった。
手袋を外している左手で受け止めたそれ。
手に触れた感触ははかなく、柔らかい。
しっとりと水気を含んでいて、この手を握り締めてもおそらく壊れてしまわない程度にはしなやかだ。
そのことに光忠は驚いて目を見開く。
「どうした」
手のひらを見つめて動かない光忠を不思議に思ったのか、大倶利伽羅が問いかける。
「これ、桜の花びらだよ」
思わず興奮気味の口調になってしまうのを、光忠は止められなかった。
◆
桜の花びらは本丸にはありふれている。
刀剣男士たちが顕現する時。錬度が上がった時。それはふわっと彼らの周りに散る。
淡い色のそれは、彼らにとって吉兆の証だ。それが舞うのは、良いことがあった時だけだ。
しかし、同時に知ってしまっている。
その花びらは、ホログラム。つくりもの。
触れてもそれは手のひらを通り抜けて、落ちてゆく。実体のない、手触りもない、きれいなだけの幻影。
しかし、今、光忠の手の中にあるものは、それらとは違っていた。
「しかも、本物だ」
光忠の声に大倶利伽羅は不思議そうな顔をした。そして光忠の手のひらを覗き込む。
彼の黄色い目が品定めでもするように細められた。視線の先にあるのは花びらだ。
「珍しいな、今の時期に」
そしてそれをそっと指でつまむ。
持ち上げて光に透かしたりして何度もしげしげと眺めた後、それをまた手のひらに返す。
「遠征先で桜でも咲いていたのか?」
「いや、遠征なんて行ってないし」
今は年の瀬だ。
本丸も数日前から非番の者達を中心として大掃除やら新年を迎える準備やらで忙しくしている。
そのため、火急を要する場合を除いて長期の遠征はしばらく休止となっていたのだ。
大倶利伽羅と光忠も午前は戦場に出たが、午後からは非番であったので、大広間と台所の掃除をしていた。
ついさっき目途がついて、休憩しようと部屋に戻ることにした。
その途中での出来事だった。
◆
「あー、二人ともお疲れ様!」
廊下で桜の花びらを眺めてる二人に声がかかる。
振り向くと、淡い桃色の髪を揺らしながらこちらに駆け寄る人影があった。
あれは、乱藤四郎だ。ついさっきまで一緒に大掃除をしていた。
今日は寒い上に掃除の日なので、普段の可愛らしいルームウェアではなく無骨なジャージを羽織っている。
それが逆に乱の愛くるしい顔立ちと華奢な体躯を引き立てていた。
ちなみに、顔の造りといい、普段の服装といい、どうみても女子にしか見えないが、れっきとした男子だ。
これから掃除道具を片付けに行くのか、左手に雑巾と洗剤の入ったバケツを持ち、右手にコードレスの掃除機を持ち、その右手をこちらに向かってぶんぶん振りまわしている。
可愛らしい見た目に反して剛腕な子である。
何しろ三条大橋の夜戦で大活躍した結果、今では錬度が短刀一となっているのだ。
「乱ちゃんもお疲れ様」
光忠が声をかけると、乱はその大きな水色の目を細めてにっこりと笑う。
「とりあえずみんなで使う部屋の掃除は一段落ついたね。後はそれぞれの個室だけど。僕まだ終わってなくってさー。二人はどう?」
「僕もこれからだよ」
光忠は実は既に掃除は終わっていたのだが、何となく話を合わせてしまう。
「大倶利伽羅さんは?」
無邪気な顔でこのなれ合いを嫌う刀にも絡んでくる。乱のこの性質を光忠は好ましいと感じていた。
「俺はする必要がない。だからしない」
少し迷惑そうな、しかしまんざらでもないような表情で答える大倶利伽羅。
「そっかー、部屋に物少なそうだもんね。いいなー」
しばらく、三人でとりとめもなく話した。
その時のことだ。
大倶利伽羅が、ふいに、乱の頭に手を伸ばす。
一瞬固まる乱。
その水色の目が、大倶利伽羅の一挙手一投足を見張っている。
その目に浮かぶ感情は驚きが大半、そしてほんの少し期待のようなものが混ざっていた。
これから何が起こるのか。
馴れ馴れしいようでいて、どこかで一線を引いている乱。
もし、それをわずかでも超えるような振る舞いがあれば、彼は容赦しないだろう。
しかし、大倶利伽羅の指が乱の髪に触れたのはほんの一瞬のことで、それはすぐに離れた。
「おまえの頭にこれが付いていた」
乱の頭から大倶利伽羅が取ったのは、薄紅色の花びら。本物の花びらだ。
「あ、それって…僕の」
光忠は思わず、大倶利伽羅が持つそれと、自分の手のひらの上のそれを見比べる。
それは、自分の頭についていたものと同じだった。
桜の花びら一片。それが自分と乱の頭に付いていたのだ。
その様子を見て、乱がはっとする。
◆
三人の間の沈黙を破ったのは乱だ。観念したように、てへっと笑う。
「ああ、ばれちゃったかな」
その表情は、いたずらが見つかった子どもみたいだった。
◆
答えは意外にあっさりと見つかった。
「ほら、ここだよ」
乱が大広間の隅にある小さな戸棚を開ける。
照明もない、薄暗い物入れ。
その暗がりの中、それはあった。
桜の枝。
薄紅色の花をつけたそれが二十数本、手折られて大きな花瓶に活けられている。
まだほころんでいない蕾から、満開となったものまで、花の状態はさまざまであったが、確かにそれは桜の花だった。
淡く、それそのものが光を放っているかのような存在感。
この暗闇の中で孤独なはずのそれは、輝いていた。
「審神者がね、お取り寄せしたんだって。この時期に咲く桜なんて珍しくていいだろうって。一日の新年会でお披露目する予定なんだ」
振り返ってにやっと笑う。
「本当は僕と審神者だけの秘密だったんだけどね。見つからないように隠したつもりだったんだけど、ここの掃除してた時、散った花びらが燭台切さんや僕の頭にくっついていたみたいだね」
「そうだったんだね」
「あのけちな審神者も意外なことをするんだな」
光忠と大倶利伽羅の言葉に、彼は何とも言えない魅惑的な表情を浮かべる。一見あいまいな、しかし様々な感情が交じりあった、その表情。
こういう時、思い出される。彼は見た目は幼いが、内面は決してそうではないということを。
「他のみんなには内緒だよ」
人差し指を唇に当ててそういう彼には、穏やかな笑みを浮かべているのに有無を言わせない威圧感もあって、光忠と大倶利伽羅は同意するしかなかった。
そもそも、別段言いふらしたい理由もない。
◆
燭台切光忠が本丸に顕現したのは、5月の上旬のことだ。
目を見開いてまず気付いたのは淡い桃色の花びら。
それが自分の周りをふうわりと取り囲むように舞っていたのだ。
きれいだと思った。思わず手を伸ばす。
しかしそれを掴むことは叶わず、その淡い一片は自分の手のひらをすり抜けて落ちていった。
ふわふわと、頼りなく揺れ動きながら落ちるそれは、土間の床に触れる直前に消えた。
仕方ないことだ。実体のない付喪神は、モノに干渉することは難しい。
ただ、触れることが出来ないことを残念に思った。
「はじめまして。君の名前を教えてくれるかな?」
自分に問いかける声に気付き、視線を向ける。
座りこんでいる自分を見下ろすように、二つの人影があるのが見えた。
一人は人間。今こちらに話しかけた方だ。笑顔を浮かべているが、わずかな不安がそこから垣間見えた。
そしてもう一人。人間の隣に付き従い、無表情にこちらを見るそれは、すぐ分かった。
純粋な人間ではないと。
自分に近いものだと。直感的にそう感じた。
二人がじっとこちらを見つめている。
そうだ、答えを求めているのだ。
ならば、返答を返さねば。
ああ、僕はなんだったっけ?
そう思いながら口を開ける。
動作が重たい。
人の身体を持っていることにその時気付く。
人の身体?どういうことだ?
しかし、混乱している心とは裏腹に、まるで最初から用意されていたような口上が口をついて出る。
その声に目の前の二人、人間と人の皮を被った者は安心したようで、特に人間は色々と話しかけてきた。
ここで自分は三振り目の太刀であること、すでに自分を知っている刀が来ているから、案内はその者にさせること、など。
正直に言えば、その時は何が何だか分からなかった。
気づくと薄紅色の花びらは消えていた。
きれいだったのに。残念だ。
そして、肉体を持たされてしまった自分が、どうしてあれを掴めなかったのか。
そのことはずっと消えないで光忠の心の中にとどまっていた。
◆
「あれはホログラムだ」
畑当番で一緒になった大倶利伽羅はそう言った。
仕事が一区切りついた、休憩中の事だ。
そろそろ初夏になる。
朝の日差しがきつくなり、その強すぎる日光は人の体を持つ自分たちを容赦なくいためつけ始める。
光忠は話したのだ。
自分がここに来た時の、薄紅色の花びらのことについて。
彼は、手拭いで汗を拭き、ついでに光忠の額の汗をぬぐってくれる。
無骨な指は意外と繊細で優しかった。
そして、彼は話してくれた。
自分が顕現した時に見えた、あの薄紅色の花びらについて。
あれが本物でないこと。
ホログラムという技術で可視化されていること。
本物の桜は本丸の庭にもあり、特にめずらしいものではないこと。
大倶利伽羅が来た時にはちょうど見頃だったが、光忠が来たころには既に散ってしまっていたこと。
「なぜあれが散るのかは分かっていない」
刀剣男士が顕現した時。
錬度が上がった時。
ホログラムの桜が散る。
当初は政府によって研究対象とされていた現象である。
しかし、それなりの資金を投じたにも関わらず、その原因は不明なままであった。
だが特に問題もないので放っておかれているとのこと。
その話を聞いた時、光忠は願った。
次の桜の季節になった時、本物の桜を見られますように。
その花びらを、香りを、手触りを、この人の身で感じることができますように。
◆
「僕、一度本物の桜を見てみたかったんだよね。だから嬉しかったな」
あれから部屋に戻った後の事だ。
今は光忠が入れた茶を飲みながら、休憩している。
炬燵に入りながらぼうっとする幸せは、肉体を得て初めて知ったことだ。
「人の身体を通すと、桜も全然違うって分かった。迫ってくるものが、以前とは段違いに多いんだ」
そう話す光忠は無邪気で、喜びに溢れた表情をしていて、まだ興奮が抑えきれないようだった。
仕方ない。人の身を得てからでは、見るものも聞くものも付喪神の時とは違って、随分輝いて見えることだろう。
大倶利伽羅もそうだったから、彼の気持ちは分かっていた。
「人の身を得てからの願いが叶ってしまったよ」
そういって、光忠は机の上の籠に盛られた蜜柑に手を伸ばした。
大倶利伽羅は、一方でそういう彼に少し寂しい気持ちを抱いてしまう。
それだけなのか。あんたの願いはそれだけでいいのか。そんなささやかなことで願いを使ってしまっていいのか。
「本丸の庭にある桜の花はもっときれいだ」
大倶利伽羅の言葉に、光忠は少し驚いたように目を見開く。
「ほんと?」
「ああ。手折ってきた枝よりずっと華やかで、まるでそこだけ違う空間みたいに空気が澄んでいる」
「そうなの?」
くるくると、こちらの言葉に反応して変わる表情が子どもみたいで可愛らしかった。
「あんたにも見せてやりたい」
大倶利伽羅はそう言うと、目の前で蜜柑の皮をむこうとしている白い手を自分の両手で包み込んだ。蜜柑が机に落ちる。
驚いてこちらを見る光忠。その暖かい、燃える炎のような目を見つめているだけで、大倶利伽羅の心は熱くなる。
思いが自然と言葉となって口から出てくる。他の者には言えないようなことも、光忠には素直に伝えることができるようになる。
「次の桜の季節には、一緒に見ないか?」
大倶利伽羅の誘いに、光忠は戸惑うような表情で、視線を落とす。
「う、うん」
「だから、それまでは消えるな」
光忠は微笑んでうなずく。
「分かった」
大倶利伽羅は念を押すように続ける。
「約束だ」
これがはかない約束だということは分かっている。
次はないかもしれない。
自分と光忠のどちらかが折れてしまったら。それまでに歴史修正主義者との戦闘が終わって、お役御免となったら。
ただ、それでも。光忠に桜の花を見せたいという気持ちは本当だった。
あの枝であれほど感動するなら、満開の桜の木を見せてやりたい。
あの美しさを、神々しさを、共に感じたい。それまでは、必ず共にいるのだ。いや、どうか、共にいさせてください。
大倶利伽羅はただそれだけを願った。