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「一人と二人」

その目から透明のしずくがこぼれ落ちた時、しまった、と思った。
黄色とも橙色ともつかない不思議な色の目がうるんで光っている。
普段なら、それは号の通り、炎のような熱を感じさせる、いい色味の目だ。
それが涙でぬれると、こうも変わってしまうのか。
今は、一見そのぬくもりは封じられてしまったかのように静まっていた。
しかし、熱すぎる炎は赤から青に変わるという。では、この黄色い炎にはどれほどの激情が秘められているというのか。
大倶利伽羅にそれは分からなかった。
ただ、自分の発言を後悔していた、ということと、その光景をきれいだと思った、それだけだ。

「そんな悲しいこと、言わないでほしいな」
その目の持ち主は、そう言った。静かな声で。そう、静かな声だった。静かすぎるくらいに静かで、その目の表情とそれは釣り合わない。
無理やり抑えつけた感情が目からあふれているかのようだ。
「君がそういうこと言うの、前から知ってるけど」
穏やかな声音と表情。ただ、凍りついたみたいに表情が固まった顔を、しずくがすべり落ちていく。
目から流れ落ちたそれは、すうっと頬から顎まで流れる。通った跡が濡れて白く光っている。きれいだった。ただ、そう思った。

彼は、泣くことのない人だ。日常では、優しい笑みを浮かべていることが多い。
一方、戦場では武人そのものといった力強い表情で敵を切り捨てる。何かもめごとがあった時も、あくまで冷静に振る舞って、解決しようとする。
感情をあらわにすることを良しとしない人だ。
その彼が、涙をこぼしていた。原因は自分の言葉にある。
さっき話したことは自分のありのままの思いだった。刀として生まれ、人を殺める道具として使われ続けるうち、それが自分の信念となっていた。
人も物も同じ。死ぬ時は一人だ。生きている時だって、そうだ。沢山の仲間に囲まれていようが、そうでなかろうが、人は人、自分は自分だ。
独立した個として存在しているのだ。だから、それは一人であることと同じ。そう思って生きてきたのだ。
しかし、それが目の前の相手をこれほど揺さぶるとは、まさか思っていなかった。思っていなかったのだ。

「悪い」
そういって、彼の頬のしずくをぬぐってやる。
透き通ったそれは少し温かくて、自分より体温の低い彼から生じたものにしては意外なほどだった。
人の身体というものは不思議だ。精神と肉体は繋がっているようにみえておかしなところで接続が切れていたりする。
精神は肉体を完全には支配できないし、肉体は精神を屈服させることはできない。どちらかが制御不能になれば、もう片方がそれに引っ張られる。
この、温かいしずくだって、彼が流したくて流したものではないだろう。ただ、抑えることができなかったのだ。
「そういう考えなのは前からわかってるよ。でも、そういうことをあんまり言わないでほしいんだ。一人で生きて一人で死ぬなんてさ」
ささやくように小声でいう彼。さきほどの感情は涙と共に流れてしまったのか、その目は幾分穏やかさを取り戻している。
しばらく、ただ、向かい合っていた。相手の目が、少しずつ、普段の色味に戻っていくのを、潤んだ目元を彼がこするたび、少しずつ、その気持ちが平坦に、落ち着いていくのを、大倶利伽羅はずっと眺めていた。

そもそものきっかけはささいなことだった。
大倶利伽羅が遠征を終えて自室に戻ると、燭台切光忠が来ていた。
おやつを持ってきたのだという。畳の上に座って彼の作ったという芋餅を食べながら、数日振りの会話をした。
彼は大倶利伽羅のいない間の本丸で起こった事件を面白おかしく話して聞かせる。大倶利伽羅はそれに時々あいづちを打つ。そこまではいつもと同じだった。
一体何がきっかけだったのか。
審神者がいつか話してた、知り合いの夫婦の話だったか。その夫婦の片割れが亡くなって、もう一人が残されてしまった、というような悲しいけれどよくある話のひとつにすぎないと、その時は思った。
彼はその二人に少し同情しているようで、僕たちだっていつどうなるか分からないけどね、と少し寂しそうに笑っていた。その後に自分が話した言葉が、事の発端だった。今思えば空気を読まない発言だったと思うが、その時は遠征帰りで疲れていて、判断力が落ちていたのは否めない。

「ごめん、急に取り乱したりして」
光忠は普段みたいな微笑みを浮かべながら、二人の間を隔てるように置かれている皿と湯飲みを脇にのける。
そしてこちらにそっと近づくと、腕を伸ばして大倶利伽羅の肩を抱き寄せた。
いつもみたく、その右肩に自分の頭をもたせかける。彼の頭の重み。首筋をくすぐる意外と硬い黒髪。どちらも心地よいものだった。
しばらくずっとそのままだった。
やがて彼は、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「こんなこといっても君の考えは変わらないんだろうけど、そういうこと言われるたび、まるで置いていかれたような気持ちになるんだ」
そう言われて、大倶利伽羅は傷口をえぐられるような痛みを覚える。
その気持ちは自分にも覚えがあった。今、自分に触れている男が、自分を置いて去ってしまった時のこと。
あまりに遠すぎる過去のことで、当時の事は今となってははっきりと思い出せないことだってあった。
しかし、それだけは、鮮明に思い出すことができた。その時の感情を。
刀が一振りなくなっただけなのに、急に屋敷が広くなったような気がしたこと。
空気が冷たさを増したように感じたこと。
今はないその一振りを思い出すたびに、苦しくなったこと。
あるべきであるはずのものがない、まるで自分の一部をなくしたような、喪失感。
それらがどっと押し寄せてきて、当時そのままに大倶利伽羅の心をかき乱す。

「あんただって、俺を置いていったことがあるだろう」
思いのほかきつい口調になってしまったのは、あの頃の痛みを思い出してしまったからだ。
光忠は何も言わない。大倶利伽羅も何も言わない。しばらく、沈黙が続く。
わかっている。当時のことが不可抗力であったことくらい。
ただ、彼の言葉に昔を思い出してしまい、つい恨み言が口をついて出てしまったのだ。
これだって言わなくてよかった言葉だ。さっきのことだって言わなくてよかった言葉だ。言わなくていいことばかりさっきから言葉にしてしまう。
大倶利伽羅が後悔していると、ふいに光忠が沈黙を破った。

「ごめん、分かってる。僕が勝手なこと言ってるって。ただ、知ってほしかったんだ。君がそういう時、僕がどんな気持ちになるか」
それは絞り出すような、苦しげな声だった。
「君が自分は一人だっていうと、僕は辛いんだ。君と僕は一緒にいるのに、君は一人きりだと感じて生きている、こんなに近くにいるのに、まるでとても遠くにいるみたいに。そう思うと、辛いんだ。自分はどうしたらいいのかって考えてしまう」
そういいながら、大倶利伽羅の襟足の髪を指でもてあそぶ。真剣な話をしている時、光忠はしばしば照れ隠しのようにこんなことをした。癖のようなものだ。
「僕は君を置いていってしまった事、ずっと後悔してた。だからここで出会えた時、すごくうれしかったんだ。これからはずっと一緒なんだって思って。だから、さっきみたいなことを言われると悲しい気持ちになる。わがままかもしれないけど、僕は、君に自分が一人だなんて感じてほしくないんだ」

それが彼の本心なのだろう。
大倶利伽羅は複雑な気持ちになった。
「一人」という言葉を口癖のように使ってしまう自分もよくないが、それは決して、彼の存在を軽視しているわけではなかった。
しかし、自分が何気なく発する言葉が、このように相手を追い詰めているとは、気が付かなかったのだ。
自分という存在を常に意識していてほしい、そんなことを言う彼には愛おしさを感じる。
共に在りたいのは大倶利伽羅も同じであったし、相手を大切に思っているのだって同じであった。
特に本丸で光忠と再会して、絆を深めていく間。人の身を得たせいだろうか、以前ほど、自分と他人の間にはっきりとした線引きをしなくなったように思う。
時には、まるで二人を隔てる境目が取っ払われてしまったような感覚を得ることもあった。
それは褥の中だけでなく、もっと日常の、たとえば些細な感動を共有した時だとか、そういう時にも生じた。
その一体感は、肉体を持たなかった付喪神の時期には、今ほど強く感じることはなかったものだった。
当時だって触れることも会話することも出来たのに、つくづく肉体というものは不思議で恐ろしい。

ただ、一方で、刀であった頃からずっと持ち続けてきた信念もまだ消えてはいないのだ。
だから、時にはさっきのようなことを考えてしまうし、口にも出してしまう。
自分は矛盾した存在だ。それは自覚している。
ただ、肉体を得たことによる新しい感覚と、以前の価値観。それは自分の心の中ではそれなりに共存しているのだ。
それはどちらかが上でどちらかが下だとかいったことはなく、それぞれが独立した存在で、その時々によって勢いのある方が顔を出した。
さっき彼が涙を流したのを見て、精神と肉体のつながりは不思議だと傍観者のように感じたが、それは自分だって同じなのだ。彼と自分は同じなのだ。

「すまなかった」
謝罪の言葉が素直に口をついて出る。
「あんたがそこまで傷ついているって知ってたら、そんなこと言わなかった」
そして、光忠の背中に腕を回す。広い背中は少しこわばっている。
大倶利伽羅は、それが、本当の気持ちを伝える唯一の方法であるかのように、その背中を抱きしめた。あくまで優しく。力を込めすぎたら、何だか壊れてしまいそうな気がしたからだ。
彼は何も言わなかった。ただ、肩に回された腕にぎゅっと力が込められるのが感じられた。