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「今日のこと」

今日は何事もなく終わった。
遠征部隊はたくさんの資材をかかえて戻ってきた。しばらく鍛刀や手入には困らないだろう。
大阪城地下に出陣した連中は新しい短刀を連れ帰ってきた。博多藤四郎といったか、随分と快活で世慣れた感じの少年だ。
夕食時に自己紹介した彼は、さっそく他の短刀たちと打ち解けているようだ。重傷を負った者もいない。失った刀装もない。いい日だ、今日は。
夕食の席に全員が顔を揃えるのは久しぶりのことだった。今日は暗い顔で食卓を囲まなくていい。いない顔を心配しなくてもいい。

「明日もこんなふうだといいよね」
光忠がつぶやくようにいった。
あれから夕食の片付けをし、部屋に戻ってからの事である。
俺は読んでいた本から顔を上げる。俺の右肩にもたれるようにして座り、爪を切っているあいつの横顔が見える。
ぱち。と時々響く爪切りの音以外は、ほとんど音がないかのような静かな夜だ。
二人だけで過ごす、穏やかな時間。
「まったくだな」
俺も同じことを考えていたから、そう返した。
毎日が戦いの日々なのだから、朝元気に出撃した仲間が刀装を失い瀕死になって戻ってくるのは日常茶飯事だ。
幸いにして、今まで折れてしまった刀はいない。これは、重傷者が出たら無理せず即時撤退すること、と決めている審神者の方針によるところが大きい。
しかし戦いの行方次第では、この方針を変えざるをえない状況にだってなるだろう。なにしろ、検非違使の出現で戦況は混沌としてきているのだ。
だからこそ、今日みたいな日は貴重だった。

他人となれ合うことは得意ではないはずだが、本丸での共同生活には特に不満はなかった。
多少の勝手は許される範囲なら認められたし、その範囲を超えると叱責を受けたが、そもそもが変わった連中の集まりだ、自分の性格は個性として認められていた。
だから居心地は悪くない。いや、むしろここに来て感謝していることだってある。
今、隣にいる男のことだ。
俺の肩に頭をもたせ掛けて今度はハンドクリームを手に塗っている。さっきから柔らかい黒髪が首筋に当たっているからくすぐったくてしょうがない。
「どうしたの?」
俺の視線を感じたのか、こちらに顔を向ける。
柔らかい笑顔だ。幾分細められた目に部屋の明りが反射して、黄色ともオレンジ色ともつかない、不思議な色合いできらめいていた。
その目が放つ温かい光を向けられると、俺は時々息をすることすら忘れそうになる。

大切な存在。一言でいえばそうだ。
数百年前に離れ離れになった時は、もう二度と会えないと思っていた。
どうやら焼けてしまったらしいと人づてに聞いた時は、自分のふがいなさを呪った。
人のように動くことができたら、自分の思いを行動に移すことができたら。今すぐ駆けつけられない自分という存在が許せなかった。

その大切な存在。それが今ここにいる。自分の隣に。
俺にもたれかかった体からは、確かな相手の存在を、熱を、感じることができた。そのこと自体が奇跡だ。
二度と会えないと思っていた相手に再会し、今度は人として、互いに触れ合い、その存在を確かめ合い、さらに愛し合うことができるのだから。ここに来てから初めて光忠を抱いた夜、隣で眠る光忠を眺めていた時のことはいまだに覚えている。あの時はあまりに幸せで気が狂いそうな気さえした。

しかし、この奇跡は、いつか終わる。
俺たち刀が肉体を与えられ、人間として新たな生を歩んでいるのは、戦の道具として使われるためだ。
だから、この戦いが終われば、この第二の生、奇妙な共同生活も終わることになるだろう。そして、それは光忠と再び別れることを意味する。今度は本当に、永遠に。
それは、ひょっとしたらもっと早く来るのかもしれない。もし戦いが終わるより先に、俺たちのうちどちらかが折れたりすれば。
どちらが先かは分からない。ただ、いつか終わる。
共にいられる幸せと、それを失う不安。
その不安の方がぱっくりと口をあけて俺を飲み込み、その奥の暗がりを見ることしかできなくなる時がある。そう、今のように。

「…こんな毎日がずっと続けばいい。そう思っただけだ」
そういった俺を、言葉のその奥の感情を、光忠は見透かしているような目で見返してきた。
俺の考えていることなどお見通しなのだろう。ただし、そのことは言わない。
「僕もだよ」
そう口にする笑顔が少し寂しそうだった。
光忠も同じことを考えているのだろう。俺たちの終わりについて。しかし、この不安を話題にのぼらせた事は二人の間では一度もなかった。
この、深い穴の底を覗いた時のような暗闇がお互いの間に浮かび上がっている時、俺たちはそのことにできるだけ触れないように、それを見ないように、慎重に言葉を選んで会話をした。
今もそうだ。ひとたび口にしたら、形にしてしまったら、何か取り返しがつかなくなるような気がするから。
だからこうして、それを刺激しないように、静かにそれが薄れていくのを待つ。
それがこの不安に完全に取りつかれないための、やり過ごし方だった。

「そういえばあんた、明日は遠征の隊長なんだろ。そろそろ休んだらどうだ?」
話題を変えたくて、当たり障りのないことを話す。
「そうだね、明日は早いから、そろそろ寝ようかな。おみやげ、期待しててよ」
そう答えると、光忠は俺にそっと口付けた。触れるだけのやさしいキス。
努めて明るく振る舞うその姿が何処か儚げで、俺は、衝動的にあいつの肩を抱きすくめる。今はとにかくその熱を、存在を放したくなかった。
放したら消えてしまうのではないか。もう二度と失いたくないのに。

「どうしたんだい、急に」
何も言えなくて、ただしがみ付いている俺の背中に、腕がそっと回される。その動きは俺の無骨なやり方と違って、あくまで優しい。
「大丈夫だよ倶利伽羅君。そんなにすがりつかなくても、僕はここにいるよ」
慈しむような口調でそう言うと、今度は俺の額にそっと唇を落とす。
その優しさと力強い腕に包まれていると、さきほどまでの不安が、和らいでいくのが分かった。
その熱が、確かなぬくもりが、氷を溶かすように少しずつ、不安を溶かしていく。
「しばらく、このままでいさせてくれ」
そう告げると、光忠はただ黙って、俺の背中を撫でてくれる。子どもにするみたいに。
今の俺は救いを求める子どもそのものだ。
こうやって光忠の優しさに甘えてしまう。いや、今だけではない。いままでだってそうだ。
あいつの全てを包み込む優しさに、俺は何度救われてきたか分からない。
「もう、落ち着いたかい?」
どれくらい時間が過ぎただろうか。光忠が耳元でそうささやいた時、不安はすっかり消え去っていた。