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「招かれないと入れないばけもの」
 
 
襖を力強く開ける音。そして、その開いた隙間から日差しが一気に入り込んだ。
灯りを落とした暗い部屋が急に明るくなり、その眩しさが、ぼんやりとした意識を現実に引き戻す。
入口の方に目をやると、そこに彼はいた。逆光になって姿はよく分からない。でも、背格好で誰なのかはすぐに分かった。
大倶利伽羅だ。

「光忠」
名前を呼ぶその声には不安の色が見てとれる。
久しぶりに聴くその声。僕の名前を呼ぶ低い声を耳にするだけで甘美な気持ちにさせられる。
彼の声に応えたいのに、自分の喉からは声が出なかった。言いたかった言葉の代わりに、かすれた音が出ただけだ。
声の主は敷居もまたがず、入口で突っ立ったままだった。

「光忠」
もう一度、名前を呼ぶ。今度は、さっきより力強さの増した声。この声の主は、真剣に僕の返答を、反応を欲している。
これに応えなくてはならないと思った。
声が出ないのならと、力の入らない顔で無理やり笑って見せる。
きっと、ひどい顔だったろう。でもそれは、大きな効果があった。大倶利伽羅の全身を覆う、張りつめた雰囲気が幾分消えたのだ。
しかし、何かをためらうように中には入ろうとしない。まるで、招かれないと部屋に入れないとかいう化け物か何かのように。
こんなのは彼らしくない。何に遠慮しているのか。何に怯えているのか。

声をかけなくては。あいかわらず入口に突っ立っている彼に対して声をかける試みは、幾度目かでようやく達成された。
「そんな、とこに、いないで、入って、おいで、よ」
何とか絞り出した声は、ひどく小さくて、のろのろとしていて、彼に届くのか心配だったが、それは杞憂だったと言い終わった瞬間分かった。
彼はまっすぐこちらに向かってきたのだ。
近づくにつれ、彼の表情が少しずつ見えてくる。さっきは逆光でよく見えなかったが、彼も随分とひどい表情のようだ。
泣いているような、怒っているような、笑っているような、一言では言い表せない顔。
きっとそういった感情全てが渦巻いて、あふれ出ているのだ。

「ずっと心配していた」
僕の横たわる布団の近くに座ると、彼は言った。泣きそうな声だった。
顔は今では泣き笑いのような、情けない顔だ。おそらく、他の人間には絶対見せないであろう表情。
浅黒い手が、僕の顔をそっとなでる。
厚みのある、体温の高いその手に触れられると、その場所から少しずつ体が癒されていくようだった。
まるで、おとぎ話か何かに出てくる魔法のように、その手は僕の体に力を取り戻していく。
もう一度、今度はさっきより随分ましに微笑みかけると、あいかわらずの情けない表情で、こう言った。
「手入が終わってもあんたの意識が戻らないと聞いて、ずっと不安だったんだ」
黄色い彼の目に浮かぶ感情には、まだその名残が残っていた。

別離の不安。
刀時代のことがトラウマになっているのか、本丸で再会して以来、彼の心の隅には常にそれがあり、時々顔を出した。
とくに、今日のような時には。僕を失いそうになった時には。

「心配かけて、ごめん」
まだ安定しない声でそう告げて、彼の目をじっと見つめる。
不安と安堵の入り混じった、その目。せめて今だけはそこから不安をぬぐいさってあげたい。
そう思って、僕の頬にある彼の手を、両手でそっと包み込む。
それくらいしか、今の僕にできることはないから。僕が確かにここにいるという証明を、示すことくらいしかできないから。

温かな沈黙が二人の間に流れる。
触れている個所から、互いの血液の流れる振動を感じる。
これが人間の体だ。血の通った生き物だ。僕たち二人が生きていて、ここにいる証だ。その振動は、ぬくもりは、少しずつ彼の気持ちを落ち着かせていく。

「もう、無理はするなよ」
やや間があって、そう言葉を発した彼は、今度は本当に穏やかな、安らいだ笑みを浮かべていた。
その黄色い目から不安の欠片は消えてしまっている。よかった、そう思って、微笑み返すと、彼はそっと僕に口づける。
「今は休め」
照れ隠しなのか、いつものぶっきらぼうな態度を少し取り戻して、つぶやくように彼は言った。